静岡県富士宮市 有限会社二の宮石材
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先代、有賀敏治
 

石匠 先代有賀敏治は仕事の合間に狛犬や石臼などの製作に取り組んでおりました。石の事や高遠石匠の事なら何でも知っていて、石屋関係ばかりでなくその他の業種の方も相談に来ていました。
下記は、 過去にNTT西日本静岡支店の特集「粋だね!しずおか」に掲載された当社先代社長、有賀敏治の記事です。

     

二の宮石材 二代目
有賀敏治(ありが としはる)

昭和5年生まれ。
富士宮市出身。
13歳の頃から親方である父、有賀正幸氏に弟子入りし石工を習う。20歳代で先代から店を任される。
昭和52年:国家検定石工一級技能資格取得
昭和58年:石工技能検定委員資格取得
平成10年度労働大臣賞卓越技能賞「現代の名工」綬賞
平成11年度黄綬褒章綬賞、静岡県技能士会優秀技能士賞綬賞ほか

古墳時代に見られる石塚にはじまり、城の石垣、石仏など、日本における石の歴史に業を尽くした石工。
こうした伝統を受け継ぐ石工の多くは信州や瀬戸内海沿岸、福島県などの

石の産地から生まれる場合が多い。静岡県富士宮市にある二の宮石材は信州高遠(たかとお)の石匠を継承する石屋。全国でも数少ない彫技を誇る名工、それが有賀敏治氏である。
     
高遠石工の歴史
高遠(たかとお)石工とは、長野県の諏訪湖から杖突(つえつき)街道を上った標高900mの高冷地にある高遠町出身の石工のことをいう。高遠では昔から輝緑石(きりょくいし)などの多くの石が産出され、ここで生まれた男達は農業の作間の職として石工の技術を身に付けてきた。
江戸時代、財政状況の厳しかった高遠藩では耕地面積の少ない山間部の農民の多くに年貢以外にも税を納めさせるため、旅稼ぎの石工をするように薦めた。そのため最盛期にはここから数百人もの石工が全国各地へ行き、高遠石工の名声を高めた。江戸城の石垣やお台場の普請は、彼らが手掛けた有名な作品の一部である。
こうした高遠石工の技の素晴らしさは細やかな彫像や文字彫りだという。作品の特徴では墓石でいうと上部に”かさ”が付いているところなど。また、旅稼ぎに出ていた高遠石工が全国に名声を高めた理由には、腕の良さはもちろん、旅先の地で身元引受人がないと仕事が出来なかったことから”身持ち”の良さが人々に受け入れられたという話もあるそうだ。
 
高遠から富士宮へ
天保10年の頃(1840年江戸末期)、信州高遠の一人の石工が旅稼ぎのために駿州富士宮・大宮を訪れた。石工の名前は有賀嘉吉(ありがかきち)。嘉吉が富士宮へ訪れた頃は、全国的に天保の大飢饉を含む幾つかの飢饉や疫病で人々は苦しんでいた。そのため人々の信仰心は高まり、嘉吉は神仏に関係する石造物などを多く手掛けたようだ。現在、富士宮市内に残る寺社内の石造物や道祖神、馬頭観音などは、こうした時代背景を思わせるものである。
さて、この時代の石は人々の生活の中で使う用具や建造物を適していたことから、石造物を手掛けたことで技術を認められた嘉吉の仕事は次第に増えていき、この地を本格的な丁場に置いた。
その後、嘉吉は富士宮市内の庄屋の娘を妻にし高遠へ帰ったが、子である柳造は技を守り、旅稼ぎの地として父嘉吉が残した富士宮の丁場を引き継いだ。現在、富士宮市二の宮地区にある二の宮石材は、約150年前富士宮を訪れた有賀嘉吉の血を引く石屋である。
※丁場(ちょうば)=仕事をする場所のこと。
     
〜厳しい修行時代〜
二の宮石材の創業は昭和8年。現在の親方・有賀敏治氏で二代目である。敏治氏は昭和5年に二の宮石材の初代である有賀正幸氏の長男として生まれ、13歳から親方に弟子入りした。
当時のニの宮石材は多くの職人を使い、下積み仕事はもちろん食事の支度なども全て弟子達が担当されていたそうだ。そうした環境の中で親方は息子である敏治氏を決して特別扱いすることなく、他の弟子同様に厳しく修業を積ませていたそうだ。
敏治氏は親方からどのようなことを学んだのだろうか---。
「親方は技術的なことを教える時は、決して口で教えるということをしない人でした。親方がいつも私に言っていたことは”先祖が造ったものをよく見る”ということ。そしてそのための時間は充分くれました。だから私は先
祖の作品を研究するために作品のある場所まで行き、写真機で作品を写したりまたは写生をしたりして、どうすれば仕上がるかというところをよく研究しました。」
と敏治氏。
また、修業中の敏治氏の作品を見た親方は”石が死んでいる”とか”石がないている”と話したという。そんな言葉を受けた敏治氏は今でも作品を手掛ける時は石が生き生きとしているように心がけて造るそうだ。
現在敏治氏の仕事は、狛犬や石仏など高度な技術を要する作品造りが主となっている。このような作品造りは全て手加工で造る。修業時代に培った物を見る目や表現力、そして手業は58年経った現在でも淀むことはない。
 
石屋の鍛冶場
石工の朝は早い。新聞配達の少年が丁場を訪れる頃には、既に作業は始まっている。
石工は仕事の前に必ず道具の手入れをしなくてはならない。道具は、石を割っていると次第に刃先が丸くなる。そのために毎日刃先を尖らせて火で温めて温かいうちに”焼き”を入れて固くする。そうしないと道具が長持ちしないからだ。
そのために昔からの石屋には必ず鍛冶場というものがあるそうだ。
「小さい頃、この”焼き入れ”で使ったお湯で顔を洗っていましたので、顔にすすがついていて小学校で先生に”顔も洗っていない”と叱られて悔しい思いをしたこともありました。」
今では道具も良くなり、毎日”焼き入れ”をすることはなくなっている。
 
〜石の節理〜
石工の仕事というものは、まず原石を採掘しそれを丁場で用途に合わせて切断するところから始まる。機械化が進んだ現在では、ダイヤモンド製のグラインダーという工具を用いて1分間に3〜5mという早さでいとも簡単に石を割ることができる。しかし昔は石工が石に矢穴を入れ、ノミを打ち石を割ってきた。何とも気の遠くなるような話である。
そこで石を割る前に重要なことがある。それは”石を読む”こと。石は柔らかい石から硬い御影石(みかげいし)、安山岩(あんざんがん)など、その性質は千差万別。例えば、火成岩が冷却して集結する際や岩石の変形や風化によって生じた石など、石がどのようにして作られたのか、つまり石の節理を理解しなければ思い通りに石を割ることはできない。手作業の頃は石を割る際に石の割れる方向=節理に沿って矢穴入れ、ノミを打ち、割ってきた。
また、矢穴の種類も様々で、城の石垣を造るときは直径20センチもある太い矢穴を使うこともあるとか。
「節理というものは素人さんには分からないと思うけど、わしらが見ればすぐに分かります。」
石工一筋に徹した職人の言葉だ。
※矢穴=石を切る際に、石の節理に沿って順番に入れていく道具。
 
技術の進歩
「私が主人と結婚した頃はまだ全部手仕事で、ちょうどこの絵のように大勢の人を使っていました。大勢の人で”磨き”をする人や”ノミ入れ”をする人など職人さんで分担して作っていました。」
と奥さんの和子さんが、当時の様子を話してくれる。
現在のような機械が導入されたのは昭和40年頃。それまで石を割るのに使ったノミや矢穴といった道具は、ダイヤモンド製の工具に変わり、昔のように手間隙かけて石を割る作業や磨く作業、彫る作業は素早く容易にできるようになった。こうした状況は二の宮石材だけでなく全ての石屋業界に共通することである。そうしたことから石工職人も次第に減少し、有賀さんのように手加工で手掛ける職人は全国でも数少なくなった。
 
〜石造物の美は角にあり〜
 石工で一人前というのは一般に石を刻む早さとか、その状態の美しさなどをいう。昔のように一人で旅稼ぎをして仕事ができるようになるまでには、最低でも4〜5年はかかるそうだ。そのあとは自分の考えや技術を磨くことによって大成していくのだ。
 さて、石工の技の基本について敏治氏は、”角の仕上げ”だという。この作業は年数をかけて修業を積んだ石工であっても骨を折る作業だとか。こうした角の仕事が出来てはじめて、カーブを描いた曲線美を造ったり、硬質の石を柔らかそうに見せたり、細かい彫技を尽くしたりという技術がこなせるようになる。そうした作業をするのにいは”気をねらす”と敏治氏はいう。この”気をねらず”というのは石工のあいだで使われる言葉で、我慢強く仕事をするという意味。切断した後の石をノミなどの道具で角をつけたり、じっくりと磨いたり、立体的な彫技を施したりという石工の仕事にはぴったりな言
葉である。また、こうした石を彫る際に使うノミの種類はそざ多いと思えば実は数本で、大抵のノミさえあればあとは職人の腕加減で見事に彫り分けられていくという。まさに”包丁一本”ならぬ、”ノミ一本”の世界なのである。
 
伝統の継承
現在、職人を育てるにはとても難しい時代である。昔のように修業中の給料が殆どないのでは今の若い人はやって来ない。それにいくら機械を使うとはいえ、石の節理を理解することや道具を使う技術などを習得することは決してたやすいものではない。そうした能力や腕を身につけるのは短期間ではできない。
二の宮石材では現在の親方を筆頭に6人の職人がいる。その中には三代目である息子さんの正治さんもいる。現在は親方の仕事を引き継いで墓石などの仕事は殆どが正治さんの担当だ。「墓石には必ずその家の家名が入ります。高遠石工の伝統はこの文字の美しさ、品の良さという特徴を持っていますので、機械化された現在も最後は必ず手で仕上がるように今も伝統が守られています。そのことは特に親方から厳しく教わってきました。」
正治さんが言う。
 
〜親方は石笛名人〜
二の宮石材さんの事務所に入ると、正面には多くの作品、向かって右側には多くの賞状が掛けられている。敏治氏の技能に対する賞状が多いなか、富士宮市教育委員会より授与された富士宮囃子の委嘱状がひとつ。
敏治氏は富士宮囃子という郷土芸能を伝承する人物でもあるそうだ。
「石屋ですからこんなのも作れるんですよ。」
とお手製の石笛で一曲披露してくれた。
かつては厳しい修業で体得した手仕事は時代の流れと共に機械化され、今では輸入された製品を売るだけの石屋もあるという。
しかし高遠石工の伝統を受け継ぐ二の宮石材として有賀さんは、
「高遠の流れをくんでいる貴重な高遠流の石屋として、真心込めた丁寧な仕事、技術を必ず後世に残したいと思っている。」
という。

富士山総本宮・浅間大社裏の石屋から石を打つたくさんの音が聞こえてくる日が楽しみだ。
 
(C) 二の宮石材 
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